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水戸地方裁判所土浦支部 平成4年(ワ)73号 判決

原告

斉藤和宏

斉藤保江

右両名訴訟代理人弁護士

柳沢尚武

永盛敦郎

城台哲

君和田伸仁

被告

学校法人土浦学園

右代表者理事

高梨公之

被告

菅原進

石塚孝男

右三名訴訟代理人弁護士

原田策司

芹澤力雄

主文

一  被告らは、各自、原告らに対し、それぞれ金二四三五万九三〇六円及びこれに対する昭和六三年一〇月二六日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

三  訴訟費用は三分し、その二を被告らの負担とし、その余を原告らの負担とする。

四  この判決は第一項に限り、仮に執行することができる。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告らは、各自、原告らに対し、それぞれ金三七九八万〇一九六円及びこれに対する昭和六三年一〇月二六日から支払い済みまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告らの負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告らの請求をいずれも棄却する。

2  訴訟費用は原告らの負担とする。

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  当事者

(一) 原告らは、訴外亡斉藤宏之(死亡当時一六歳・以下「宏之」という。)の父母である。宏之は、昭和六三年四月、被告学校法人土浦学園(以下「被告土浦学園」という。)が設置する土浦日本大学高等学校(以下「土浦日大高校」という。)に入学し、野球部に入部していた。

(二) 被告菅原進は、被告土浦学園に雇われ、右土浦日大高校野球部の監督をしていたもの、被告石塚孝男は、被告土浦学園に教師として雇われ、右野球部のコーチをしていたものである。

2  本件事故の発生

(一) 土浦日大高校は、茨城県内では各種の大会で優勝候補にも挙げられることのある野球の名門校で、甲子園の高校野球大会には春夏合わせて四回出場したことがあり、昭和六三年当時、野球部員は約一〇〇名もいたが、同年九月中旬に行われた新人戦では二回戦で敗退し、同年一〇月の県大会にも出場できない結果に終わり、野球部の立て直しの必要が叫ばれていた。

(二) 土浦日大高校野球部の部員は、被告土浦学園の設営している茨城県新治郡出島村大字中台四四三番地所在の出島寮に合宿し、平日の練習は、授業終了後、午後四時ころ同寮に帰って寮に隣接するグラウンドに集合し、日没後一時間位までライトを点灯して練習をし、夕食後も多数の者が自主トレーニングをしていた。土曜、日曜も休養日ではなく、特に日曜日には、練習試合や自主トレーニングも行い、年末年始一週間とお盆などに練習を休むくらいで、練習は厳しく、特に夏休み期間中などは食欲も殆どなくなるほどであった。そして、監督、コーチが野球部員を殴るなどの暴行を加えたこともあり、部員は、正選手となるための他の部員との競争に不利になることを恐れて、監督やコーチに対し疲労や体の不調を訴えたり、練習を休むことを申し出ることは到底できなかった。また、野球部員に対しては同年五月に健康診断を実施しただけであり、本件事故発生前には、練習中に倒れて病院に搬送される者が出ていた。

そして、出島寮での野球部員の生活は、上級生が優先し、新入の部員は、就寝や食事についても上級生に気を遣い、朝食の際には十分食べられないということもあった。

(三) 本件事故が発生した同年一〇月二六日、宏之ら野球部員は、午後四時二五分ころ、学校から出島寮に帰り、午後四時五〇分ころ、宏之を含む約六〇名の部員がグラウンドに集合し、被告菅原は、不在であったので、足を骨折して松葉杖を使用していた被告石塚の指導により、午後五時一〇分ころから二つの班に分かれて練習を開始した。

宏之は、第二班に属して、当日の練習メニューである兎飛び、鉄棒の懸垂、丸太飛び、腕立て伏せ、腹筋運動などのサーキットメニューを消化した後、最後のトレーニングとして、野球場の左翼ポールから右翼ポールまでの約二〇〇メートルの間を全力疾走するポールダッシュ(以下「ポール・ポール」ともいう。)を四本(片道を一本と呼ぶ。)行った。

(四) ところが、被告石塚は、宏之ら第二班の練習態度が悪いとして、柔軟体操に取り組んでいた宏之らに「休んでいないで走れ。」と声をかけて、右ポールダッシュのやり直しを命令した。

宏之らが右命令に従って四、五本のポールダッシュをやり直すと、被告石塚は、今度は、一方のポールに到着するとすぐに他方のポールに向かって繰り返し全力疾走するという、それまで一度も行ったことのないポールダッシュ(以下「連続ポールダッシュ」という。)を指示した。

宏之は、右の被告石塚の指示に従って連続ポールダッシュを繰り返し、三本終えて左翼ポールに向け走っている時に、突然右翼ポール付近で倒れた。

(五) 被告石塚は、宏之が倒れたことを三年生の部員の報告によって知りながら、その場に寝かせて置けと指示しただけで、すぐに宏之のもとに駆けつけず、グランドの内野に主力の部員を集合させ、「普段走っていない者に限って走らせればああなるんだ。」などと言って、右部員らに説教を始めたが、異常を知らせる二度目の部員の報告により初めて事態の重大さに気付き、あわてて松葉杖をついて宏之のもとに駆けつけ、救急車の手配をし、宏之の着衣をゆるめ、酸素ボンベを使用し、蘇生処置を施したが、その時はすでに一五分を過ぎていて、宏之は意識がなくなっており、救急車により同日午後七時二分ころ土浦市内の土浦協同病院に搬送され、蘇生処置が施されたが、同日午後七時三一分、同病院で心不全により死亡した。

3  被告らの責任

(一) 被告石塚の責任

(1) 宏之ら新入部員は、被告石塚を畏怖しており、その命令には盲目的に従い、多少調子が悪くても、無理をして最後まで手を抜かずに走り抜こうとする傾向があること、夏休み期間中は激しい練習を課せられて、本件事故当時はその肉体的疲労は極限に達していたこと、すでに、宏之らは、被告石塚が連続ポールダッシュを指示するまでに、通常のポールダッシュを約八本も短時間に行っていたこと等の事情からすれば、連続ポールダッシュは心身の発達途上にある宏之ら新入部員の身体に加重な負担を課する過激かつ危険な行為であり、このことは、被告石塚においても容易に予想できたので、右の連続ポールダッシュのような過激な運動をさせることは避けるべき義務があったのに、宏之らにこれを命じた被告石塚には宏之の死亡につき過失があり、民法七〇九条の不法行為責任がある。

(2) 被告石塚には、宏之が倒れたことの報告を受けたならば、一刻も早くその場所に駆けつけ、救急機関への通報、人工呼吸の実施、酸素吸入など迅速、適切な救命処置を講ずべき義務があったのに、同被告は、宏之が外野付近で倒れているのに気付いてからも、ただ寝かせて置くように指示しただけで、漫然と宏之を放置して死亡するに至らせた点で過失があり、同じく同条の不法行為責任がある。

(二) 被告菅原の責任

被告菅原は、監督としての職務上、部員の生命身体の安全を確保し、部員が練習中倒れるという突発的事故が発生した場合には、迅速、適切な処置をとるべき義務があるので、部員の練習には特別の事情がない限り立会い、緊急時には迅速、適切な救護処置がとれるような状態を確保すべきであるのに、漫然と、松葉杖をつき、緊急事態に対応できない被告石塚に練習の指導を任せていた過失により、宏之を死亡するに至らせたのであるから、民法七〇九条の不法行為責任がある。

(三) 被告土浦学園の責任

(1) 被告石塚及び被告菅原は、被告土浦学園の事業である学校教育の一環としての野球部の練習を指導中に、前記のとおりの不法行為をしたのであるから、被告土浦学園は、両被告の使用者として、民法七一五条により右の不法行為による損害を賠償する責任がある。

(2) 訴外保立謙三は、被告土浦学園の理事で、校長でもあったものであるが、被告土浦学園は、野球部の部員を全寮制として、入寮を強制し、部員の全生活領域を管理しており、また、野球部の練習は激しいものであったので、宏之のような新入部員は、心身の発達途上にあり、初めて親元を離れて生活するという精神的不安や体力及び経験の不足から健康を害し、練習中に倒れ、死亡事故等の深刻な結果を生じさせるかも知れないことが予想され、現に本件前に七名もの部員が脱水症状などで病院に搬送されたこともあったのであるから、訴外保立は、被告土浦学園の管理者としての職務上、慎重に配慮し、体力と経験に応じて練習内容を区別するなど合理的で適切な練習計画を立案、実施するよう担当者に助言指導し、部員には定期に医師の健康診断を受けさせる等健康管理を十分に行い、危険防止のための措置を整備する義務があり、さらに、練習中の突発事故に対応するため、トレーナーなどの救急治療の専門家や十分な酸素ボンベを配備し、日頃から部員らに人工呼吸の訓練をするなどの救護体制を整備すべき義務があった。

ところが、訴外保立は、これらの指導助言や救護体制の整備を行わず、部員の練習に監督が不在がちな状態を黙認し、緊急事態に十分対応できない被告石塚に練習の指導を漫然と任せていたため、宏之が死亡する事態を生じさせたのであるから、被告土浦学園は、理事である訴外保立が生じさせた損害について賠償する責任がある。

(3) 被告土浦学園は、宏之を入学させることによって宏之と在学契約を締結し、宏之の生命、身体の安全を確保すべき債務を負うに至ったのであるが、履行補助者である前記被告石塚及び被告菅原の過失により、また、理事である訴外保立の職務行為により宏之を死亡させたものであるから、被告土浦学園には債務不履行の責任がある。

4  原告らの損害

(一) 宏之の逸失利益  四七八六万〇三九二円

宏之は、死亡当時一六歳で、四年生大学への進学を予定していたので、生存していれば、二二歳から六七歳まで四五年間就労して、平成元年賃金センサスの産業計・企業規模計・新大卒の男子労働者の年収額五八〇万八三〇〇円の収入を得たはずであり、その間の生活費控除は五割とするのが適当であるから、これを基礎に宏之の得べかりし利益の死亡当時の現価をライプニッツ方式により計算すると、4786万0392円(5808300円×0.5×16.480)となる。

(二) 宏之の慰謝料   一八〇〇万円

(三) 葬儀費用 一二〇万円

原告らは、葬儀費用として一二〇万円を下らない費用を支出した。

(四) 原告らの慰謝料  各一〇〇万円

宏之は、原告らの長男であり、中学時代は野球部のエースとして活躍し、性格も優しく明朗で、誰からも親しまれており、その成長を楽しみにしていたのに、かけがえのないわが子を失った原告らの精神的苦痛は著しく、慰謝料はそれぞれ一〇〇万円を下らない。

(五) 弁護士費用 六九〇万円

5  原告らの相続

原告らは宏之の父母であり、前記(一)、(二)の損害の二分の一宛を相続した。

6  よって、損害(一)、(二)、(三)、(五)の二分の一に(四)の金額を加えた三七九八万〇一九六円宛とこれに対する本件事故の日である昭和六三年一〇月二六日から支払い済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実は認める。

2(一)  請求原因2の(一)の事実は認める。ただし、野球部員は約九〇名である。

(二)  同2の(二)の事実のうち、部員が出島寮に合宿し、年末年始及びお盆以外は土曜、日曜も休みなく練習を行っていたことは認めるが、その余は否認する。

土浦日大高校野球部の月曜日から金曜日までの練習状況は、次のとおりである。

(1) 約九〇名の部員は、約三〇名の三班に編成され、予め定められた練習内容(以下「練習メニュー」ともいう。)に従って練習するのであるが、練習メニューは、①被告土浦学園の体育館で行うウェイト・トレーニング、②出島寮に隣接する陸上競技場及び野球場の外周の土手上で行うサーキット・トレーニング、③野球場のグランドで野球の技能を練習するグランド練習に分けられ、各班は、ほぼ右の順序で日替わりで練習するのである。

右のうち、特に、②のサーキット・トレーニングは、(a)陸上競技場でジョギング、体操、ランニング等を約三〇付分強で行うランニング練習、(b)野球場の外周の土手上をジャンプ、スクワット、懸垂、腹筋背筋運動等の約一五種類の運動をしながら約三〇分強で一周するサーキットメニュー、(c)右翼ポール付近から左翼ポール付近までの外周土手上約二〇〇メートルの間を、約三〇メートルの間隔をおいて一人ずつ走り、左翼ポール付近に到着すると、全員が走り終えるまで待機し、その後右翼ポールに向かって走る約二〇分間のポールダッシュによって構成されている。

(2) 部員は、毎朝午前六時三〇分に起床して、全員の点呼を行い、朝食の後、午前七時四〇分ころスクールバスで登校し、授業終了後、前記①のウェイト・トレーニングを行う班員は学校に残り、その余の班員は、午後三時四五分ころ同バスで出島寮に帰り、午後四時四五分ころから練習を開始し、午後六時三〇分過ぎころには終了するのである。

また、被告土浦学園では、毎年四月に全校生徒の健康診断を行っており、それには心電図検査も含まれているが、宏之の検査結果は異常がなかった。

(三)  同2の(三)の事実のうち、本件事故当日の練習開始までの事実及び第二班の練習が最後のポールダッシュに入った事実は認めるが、ポール・ポールを四本行ったという事実は否認する。

(四)  同2の(四)の事実のうち、被告石塚が第二班の者にポールダッシュのやり直しを一回指示したこと、宏之が右翼ポール付近で倒れたことは認めるが、その余の事実は否認する。被告石塚は、グランドでの第一班の守備練習を一塁側ベンチ付近で指導していたところ、第二班の部員らがポールダッシュで全力疾走をしていないようであったので、ポールダッシュのやり直しを指示したもので、原告らの主張する連続ポールダッシュを指示した事実はなく、宏之が倒れたのは、午後六時二〇分ころで、右翼ポール付近で待機中であった。

(五)  同2の(五)の事実のうち、宏之が、救急車により同日午後七時二分ころ土浦市内の土浦協同病院に搬送され、蘇生処置が施されたが、同日午後七時三一分、同病院で心不全により死亡したことは認めるが、その余の事実は争う。当時宏之が倒れたことを知った三年生部員が駆けつけて、宏之のストッキングを脱がせ、衣服をゆるめ、本部席に備えてあった携帯用酸素ボンベで酸素吸入をし、被告石塚も、宏之が倒れたことの知らせですぐに駆けつけ、救急車の手配をし、心臓マッサージなどの応急処置を施したのであり、救急車の出動を要請したのは同日午後六時三二分ころで、同日午後六時三九分ころ、救急車がグランドに到着したのである。

そして、宏之の直接死因は、急性心不全であるが、その原因は宏之の病気による突然死である。

3  同3の事実は争う。ただし、訴外保立が被告土浦学園の理事兼校長であることは認める。

4  同4の事実は知らない。

5  同5の事実は争う。

三  被告らの抗弁とこれに対する原告らの認否

1  被告らの抗弁

被告土浦学園は、原告らに対し、(1)昭和六三年一〇月二六日通夜見舞金として五〇万円、(2)同月二八日御香料として一〇〇万円、(3)平成元年六月九日日本体育・学校健康センターの災害共済給付金一四〇〇万円を支払っているので、これらは原告らの損害額から控除されるべきである。

2  原告らの認否

右1の各金員を受領した事実は認めるが、原告らの損害額から控除すべきであるという主張は争う。

第三  証拠

証拠関係は、本件記録中の書証目録及び証人等目録各記載のとおりであるから、これらを引用する。

理由

一  当事者

原告らは、宏之(死亡当時一六歳)の父母であり、宏之は、昭和六三年四月、被告土浦学園が設置する土浦日大高校に入学し、野球部に入部していたこと、被告菅原進は、被告土浦学園に雇われ、右の土浦日大高校野球部の監督をしていたもの、被告石塚孝男は、被告土浦学園に教師として雇われ、右野球部のコーチをしていたものであることは当事者間に争いがない。

二  本件事故

1  本件事故の発生

土浦日大高校野球部の部員が昭和六三年一〇月二六日午後四時二五分ころ、学校から茨城県新治郡出島村大字中台四四三番地所在の出島寮に帰り、午後四時五〇分ころから、宏之を含む約六〇名の部員が同寮に隣接する野球場に集合して練習を開始し、宏之ら第二班の部員が野球場の外周土手上でサーキット・トレーニングをしていた際、突然宏之が倒れ、同日午後七時二分ころ、救急車により土浦市内の土浦協同病院に搬送され、蘇生処置が施されたが、同日午後七時三一分、同病院で心不全により死亡したことは当事者間に争いがない。

2  本件事故発生に至る経緯

争いのない事実並びに成立に争いのない甲第五号証の三、同第六号証の三及び同第一二号証の八、証人杉江和実の証言によって真正に成立したものと認められる甲第九号証及び同証言、証人楠良治の証言によって真正に成立したものと認められる甲第一三号証及び同証言、被告石塚本人尋問の結果によって真正に成立したものと認められる乙第六号証、原告斉藤和宏本人尋問の結果によって真正に成立したものと認められる甲第二二号証、原告斉藤保江本人尋問の結果によって真正に成立したものと認められる甲第二三号証、被告石塚及び同菅原各本人尋問の結果によると、次の事実が認められる。

(一)  土浦日大高校は、茨城県内では各種の大会で優勝候補にも挙げられることのある野球の名門校で、同校野球部は、昭和六一年夏に全国高校野球選手権大会に出場したことを含め、甲子園の高校野球大会には春夏合わせて四回出場したことがあった。しかし、昭和六三年夏の大会では、茨城県予選の四回戦で敗退し、同年九月の県南大会でも二回戦で敗退し、春の選抜高校野球大会の選抜を受けるのを目標にチームの建て直しを迫られていた。

(二)  昭和六三年当時、野球部員は約九七名であったが、全寮制であり、被告土浦学園が設営している出島寮に合宿しており、被告菅原は監督、被告石塚はコーチ、教師の野村清一が野球部長で、被告石塚、野村及び教師である松橋明宏外一名の四名が顧問であり、被告菅原、被告石塚及び松橋明宏が部員の練習の指導をしていた。

被告菅原は、昭和三九年から昭和五一年まで茨城県立龍ヶ崎一高野球部の監督をし、その間、甲子園大会に二回出場し、高校野球放送の解説者をした後、昭和五八年四月から土浦日大高校の野球部監督になったが、これまでに同校野球部監督として一回夏の甲子園大会に出場したことがあり、被告菅原も出島寮に合宿することがあった。

被告石塚は、土浦日大高校に入学して野球部に入り、主将にも選ばれ、同校卒業後、日本大学文理学部体育学科に入学し、そこでも野球部に所属し、昭和六二年三月同大学を卒業して、同年四月から土浦日大高校の常勤講師として保健体育を教えるかたわら、同校の野球部顧問兼コーチをしていた。被告石塚も出島寮で生活し、部員と寝食を共にし、練習では主として技術的指導を行っていた。

(三)  土浦日大高校野球部では、昭和六三年夏の大会後、三年生部員が抜けて、一、二年生を中心とした練習が行われ、三年生は自主参加で、練習の補助や自主的な練習をしていた。

同年一〇月当時の同校野球部の練習方法は、部員が、チームの主力メンバーを集めた第一班、それに準ずる者による第二班及び体力が少し劣る者による第三班に分かれ、各班員は二二、三名宛で、各班には三年生が数名ずつ練習補助者となり、(1)ウェイト・トレーニング、(2)サーキット・トレーニング、(3)グランド練習の三種類の練習メニューを一日交替で行い、(1)のウェイト・トレーニング班は土浦市内にある土浦日大高校の体育館で専門のトレーナーの作成したメニューに基づき、体力に応じたトレーニングを行い、(2)、(3)の練習は出島寮に隣接する陸上競技場及び野球グランドで行っていた。右のグランド練習は、守備練習及び打撃練習の実技の練習をするのであるが、サーキット・トレーニングは、被告菅原が作成したメニューで、主として野球グランド外周の土手において、①両手で両足首を掴んで一五メートル位を歩く運動(亀の子歩き)、②両足を揃えて丸太の横飛び越えを左右に繰り返す運動(丸太ジャンプ)約二〇回、③バーベルを両肩に担いで立ち上がり足の屈伸を繰り返す運動(スクワット)約一〇回、④鉄棒の懸垂運動二〇回、⑤鉄棒にぶら下がって足を持ち上げる屈伸運動五回、⑥片足歩き約五〇メートル、⑦腕立てと両足の屈伸運動を素早く繰り返す運動、⑧片足(⑥と異なる)歩き約五〇メートル、⑨二人組による腕立て手押し車約二〇メートル、⑩兎飛び約一五ないし二〇メートル、⑪腹筋、背筋運動各一〇回、⑫ダッシュ四〇ないし五〇メートル、⑬左右のジャンプと屈伸運動(ワンツウダウン)一〇回のメニューを、一コースに約三〇分かけて、二コース行い、最後にポールダッシュ一セット四本を約二〇分で行うものであった。

練習時間は、月曜から金曜までは、学校の授業終了後、(1)のウェイト・トレーニング班は学校に残り、その他の二つの班員は、午後四時過ぎころ、通学バスで出島寮に帰り、着替えたうえ、全員揃って陸上競技場において、体操、ランニング等を中心とするウォーミング・アップをした後、各班に分かれて午後四時四五分ころから午後六時四〇分ころまで当日の練習メニューをこなし、土曜日は、午前中の授業を終えて、午後から同様に分かれて練習し、日曜日は、総合練習として、全員が紅白試合や他校との練習試合を行うなど、出島寮に帰って昼食を取るほか、夕刻までほぼ一日中引き続き殆ど休憩もしないまま練習を行っていた。そして、午後七時の夕食後は、月に一度はミーティングが行われ、また、半数位の者は、監督らに認められてレギュラーに選考されることを目指し、自主的にバットの素振り、ランニング或いは投球練習を行っていた。

部員の練習は毎日行われ、雨天の日も室内練習をすることが多く、練習を休むのは非常に少なかった。

(四)  被告土浦学園では、昭和六三年四月には、生徒の健康診断を行い、新入生に対しては心電図検査を実施し、また、出島寮では、被告石塚が起床後の午前六時三〇分ころ及び夕食後の午後八時三〇分ころに行う点呼の際、体調の悪い者は申し出るように常に告げていたが、監督に認められてレギュラーに選考されることを目指す部員は、監督やコーチの評価を気にし、或いは練習中や普段の寮生活上の部員の態度について注意し、殴ることもあった監督やコーチの態度を恐れて、風邪その他で健康状態がすぐれないときでも、これを言い出し難い状況であった。

昭和六三年六月五日には一人の部員が脱水症により土浦協同病院で治療を受け、同年八月二三日には一人の部員が熱射病の疑いで、同年九月四日には三人の部員が脱水症でそれぞれ救急車により同病院に搬送され、治療を受けたこともあった。

(五)  宏之は、幼稚園及び小学校低学年では、スイミングスクールやサッカークラブに入って練習し、小学四年生ころから少年野球チームにも所属し、投手で四番打者として活躍し、取手市内の大会で優勝したこともあり、また、中学に入学と同時に野球部に入り、三年間続けてチームの主力として活躍し、同市の選手権大会で優勝するなどの実績があった。そこで、高校でも野球を続け、甲子園に行きたいという夢を抱き、スポーツ推薦入学制度のある土浦日大高校を受験することを考え、昭和六二年一〇月ころ、宏之、原告斉藤和宏及び中学校の野球部監督である教師が土浦日大高校野球部の監督である被告菅原に面会し、学校成績や野球の実績等について話し、ほぼ推薦枠に入れることの内諾を受け、昭和六三年一月入学試験を受けて合格し、同年四月入学と同時に、同校野球部に入部したものである。

3  本件事故発生の状況

争いのない事実並びに前掲甲第九号証、乙第六号証、原告斉藤和宏本人尋問の結果によって真正に成立したものと認められる甲第一六号証、証人杉江和実、同根本哲夫及び同稲葉浩司の各証言、被告石塚本人尋問の結果によると、次の事実が認められる。

被告菅原は、進路指導の件で出張していて、宏之の死亡事故が発生した同年一〇月二六日の練習には立ち会わず、グランド練習及びサーキット・トレーニングとも、左足を骨折して松葉杖を使用していた被告石塚の指導で行われた。

宏之が所属していた第二班の一、二年生の部員約二二名は、サーキット・トレーニングの練習を行う日に当たっていたが、まず、午後四時半過ぎから、陸上競技場で約二〇分間のウォーミングアップの後、午後四時五〇分ころから野球場外周の土手においてサーキット・トレーニングとして、合計約一時間かけて前記の①から⑬までのサーキットメニューを二コース行い、その後、一〇回の腕立て伏せを二回行った後、ストレッチ運動を含む柔軟体操をし、さらに、約二〇分かけて野球場の外周土手で、左翼線と右翼線のポールの間約二〇〇メートルを全力で、部員が約二〇メートルの間隔を保ち、一方のポール付近から他方のポール付近に走り、全員の到着を待って反転し、もとのポールに向けて走る「ポール・ポール」と呼んでいるポールダッシュを片道五本繰り返した後、三塁側の土手で柔軟体操をしていた。

ところが、ホームベース付近でグランド練習を指導していた被告石塚が第二班の部員に向け「休んでいないで走れ。」と声を掛けて指示したので、これを聞いた同班の班長である二年生杉江和実(旧姓大野)は他の班員に声を掛け、部員を先導して再びポール・ポールを繰り返し、これを四本位繰り返した際、再び、被告石塚が「休まないで走れ。」と声を掛けた。被告石塚は、ホームベース付近で守備練習を見ていて、ポールダッシュをしている第二班の部員が全力で走っていないと思ったため、右の指示をしたもので、同被告の意思はポールダッシュを一セットさせるつもりであった。ところが、右杉江は、一方のポール付近に到着し、後続の者を待つことなく、連続してポール間を走るように指示されたものと思い、先頭に立って、これまでしたことのない連続ポールダッシュを繰り返した。そして、右の連続ポールダッシュを二、三本行ったころの同日午後六時一五分から二〇分ころ、宏之が右翼のポール付近で膝からくずれる様に倒れた。これを見た第一班の補助をしていた三年生が、宏之の側に行き、宏之がひきつけを起こし、すぐに冷たくなるように感じたので、そのベルトを緩め、靴下やスパイクを脱がせ、腕や足のマッサージをしたが、宏之は、目は半開きで、意識はなく、脈拍も心音も感じられなくなった。そこで、生徒が本部席にあった携帯用の酸素ボンベを持ってきて酸素吸入を試みたが、その効果はなかった。被告石塚は、宏之が倒れた際、ホームベース付近で守備練習の部員を集めてミーティングをしていたが、第二班の練習の補助者である三年生が来て、倒れたと知らせたので、右翼ポール付近にいる者らに向かって「そのままにしておけ。」と怒鳴り、守備練習の部員らに二、三話をした後、右翼ポール付近に向けて歩き、途中で会った生徒に救急車を呼ぶように指示したうえ、宏之が倒れた場所に着き、その脈拍、呼吸、心臓の鼓動を調べたが、いずれも確認できなかった。そこで、被告石塚は、昭和六二年の夏、救助法の講習を受けていたので、心臓マッサージを続けた。一方、被告石塚から救急車を呼ぶように言われた生徒はグランドの本部席にあるインターホンで寮の管理人に連絡し、同日午後六時三二分ころ、右管理人が消防署に救急車の出動を要請した。そして、同日午後六時三九分ころ、救急車がグランドに到着し、救急隊員が酸素ボンベによる吸入と心臓マッサージを続けながら搬送し、同日午後七時二分ころ、土浦市真鍋新町所在の土浦協同病院に到着したが、当時の宏之は、心停止、呼吸停止の状態で、瞳孔は中等度散大しており、同日午後七時三一分、死亡が確認された。

4  宏之の死因

宏之の直接死因が急性心不全であることは当事者間に争いがない。なお、成立に争いのない甲第二号証及び乙第七号証によると、宏之が救急車により搬送された土浦協同病院の担当医師小林史枝は、宏之の死因は急性心臓死であると診断している。また、成立に争いのない乙第四号証、証人土井幹雄の証言及び同証言によって真正に成立したものと認められる甲第一五号証(意見書)によると、昭和六三年一〇月二七日、宏之を解剖した筑波メディカルセンター病院病理科長医師土井幹雄は、体の他の部位に死に至らしめる病変が存在せず、明らかに心臓が原因となって死亡したものであり、心臓に病理形態学的異常を指摘できないので、宏之の死因は急性心不全であると診断しており、右診断に異論はないものと認められる。

しかし、右の心不全の原因については、原告らは、過激な運動であると主張するのみであるが、被告らは、宏之の病気による突然死であると主張している。

そこで、右の心不全の原因について検討するに、前掲乙第四号証、甲第一五号証(意見書)及び証人土井幹雄の証言によると、土井医師は、顕微鏡(組織学的)所見として、宏之には、(1)両心室心筋の著名な収縮壊死、心筋の断裂・波打ち像、(2)右冠状動脈入口部狭小、(3)His束中央部の限局性小出血巣、(4)抗ミオグロビン免疫染色で両心室心筋の斑状染色像、(5)明らかな新旧心筋梗塞巣なしとの所見を得たが、(1)、(3)の所見は必ずしも心筋の特異的な病的変化とする根拠がなく、(4)の所見も冠状動脈支配領域と関連性がないこと等から病的所見とは言い難いとし、(2)の所見については、右冠状動脈入口部は、正常者では直径三、四ミリメートルのところ、宏之のそれは一ミリメートルであるが、入口直後で二分岐していて、右冠状動脈本管の太さは三、四ミリメートルで尋常であること、冠状動脈入口部に繊維化等の器質的変化がなく、造影所見でも冠状動脈の走行異常、内腔の狭小化等は認められず、右冠状動脈灌流領域に明らかな変化を認めないことから、右冠状動脈血流量が減少していた証拠は明らかでないとしている。右の意見は、右冠状動脈入口部狭小による血流量の減少の一般的可能性を前提にしているのであるから、「その証拠は明らかでない」というのは、論理的とはいえない。この点について、土井医師は、証言においては、「右冠状動脈の血流量が著しく低下していたという証拠はない。」と述べているので、その血流量が尋常の太さの冠状動脈の場合と全く同じであるとか、血流量に影響がなかったという趣旨とは解されず、酸素供給に影響を及ぼす程の血流量の減少はなかったという趣旨と解される。

そして、前掲甲第二二、第二三号証、成立に争いのない甲第八号証、原告斉藤和宏本人尋問の結果により真正に成立したものと認められる甲第二五、第二六号証、被告石塚本人尋問の結果により真正に成立したものと認められる乙第三号証並びに原告両名及び被告石塚各本人尋問の結果によると、宏之は、風邪や麻疹などの軽い病気をしただけで、非常に健康で、中学校では、三年間のうち二日欠席しただけであること、幼稚園当時から中学校までの間、スイミングスクールでの水泳、サッカークラブでのサッカー、野球などの運動を続け、中学三年当時は身長173.9センチメートル、体重74.5キログラム、胸囲九二センチメートルで、発育がよく、体格は学年の中でも上位であり、殊に野球では投手として相当の練習や試合を行ってきたのに、体力的に問題がある徴候は窺われなかったこと、土浦日大高校に入学後の昭和六三年四月二二日の健康診断においては、身長175.3センチメートル、体重81.5キログラム、胸囲九八センチメートルで、心電図検査も所見なしとなっていること、土浦日大高校に入学後の同年四月及び八月の日記等には、「疲れた。」という言葉や練習の苦しさを漏らす言葉が書かれているものの、夏期の苦しい練習も乗り越えていることが認められ、これらの事実に土井医師が挙げる組織学的所見及び造影所見を併せ考えると、前記の右冠状動脈狭小は心筋の虚血が生じる程のものではなかったという同医師の意見は肯認することができる。

もっとも、成立に争いのない乙第五号証の二、証人乾道夫の証言によって真正に成立したものと認められる乙第五号証の一(意見書)及び同証言によると、江東病院の臨床病理科医長乾道夫は、宏之の死は、症状の発現から死亡までの時間経過がきわめて短く、予期されない死としての心臓突然死であり、医学文献上、心臓性突然死の多くに虚血性心疾患が基礎疾患として存在し、右基礎疾患・病態の一つとして冠状動脈奇形(入口異常、入口部狭窄)が挙げられていることから、宏之は、右冠状動脈入口部の狭小により血流量が正常人の三分の一(証言では一六分の一以下)であり、心筋には慢性的酸素供給の障害があったとして、右冠状動脈入口部の狭小が心不全の原因疾患であるとしている。しかし、右の乾医師の意見は、前記の土井医師が挙げる解剖に基づく組織学的所見、造影所見、宏之の既往歴等を十分に考慮したうえでの意見であるとはいえず、前記の土井医師の意見を左右するものとはいえない。

そして、土井医師は、解剖所見から、宏之には、心筋症、心筋炎、弁膜疾患、全身性の感染症、代謝異常等は認められないので、本件事故当時は、左心・右心両者に同時にかつ広汎に虚血に陥る状況、すなわち有効な循環血液量の減少した状態があったものと推測し、宏之の解剖時のヘマクリット値が高い(前掲乙第四号証によると、解剖時の採血のヘマクリット値七〇パーセント以上)こと、電解質の失調(成立に争いのない乙第七号証によると、土浦協同病院での血清検査でナトリウム値一九〇、カリウム値8.1)がみられることと宏之の当日の運動状況から、急性心不全の原因として一番大きく関与したものはおそらく脱水症であろうとし、或いは脱水の関与は否定できないとしている。この点でも、乾医師は、宏之の脱水症を否定するのであるが、同医師は、前記血液検査の結果を尊重しないまま意見を述べているもので、脱水症の程度についての理解を異にするところがあり、これも土井医師の意見を左右するものとはいえない。

そこで、成立に争いのない乙第八号証によると、本件事故当日の日中は晴れで、午後五時の気温は一六度位、風速は二メートルであり、高温多湿とはいえず、前記認定のとおり、宏之の運動時間も約一時間半程度であるが、前掲甲第九号証及び同一六号証等によると、被告石塚が第二班の部員に指示した追加のポールダッシュ及び連続ポールダッシュは右部員には相当苦しいものであって、その身体に過大な負担を与えたことが認められるので、これらの状況と宏之に他に虚血性基礎疾患・病態の認められないことからして、土井医師の意見のとおり、宏之は、当日の運動による脱水症が関与して有効な循環血液量の減少した状態が生じ、急性心不全に陥ったものと認めざるを得ない。

三  被告らの責任

1 高校における運動部の指導は、学校教育の一環として生徒の健康の増進、体力の向上に務め、正常な心身の発達を図ることを目的とするものであるから、指導者は、生徒の体力の現状を知り、健康管理に務め、生徒の健康状態や技能の程度に応じた練習指導を行い、勝敗にとらわれて行き過ぎた練習が行われることのないように務めるべきである。特に、一五、六歳の基礎体力も十分でない高校一年生に対し、短期間に体力や競技力の向上を図る目的で、限界を超えたトレーニングを行うことは、生徒の身体に加重な負担を及ぼし、慢性疲労に陥らせて心身の調節機能を失わせ、健康を害するに至るので、このような事態に至らないよう、指導者は生徒の健康、安全について十分な配慮をすべき義務があるといわなければならない。

そして、高校の野球部における監督、コーチと部員の関係をみると、監督側はその地位と力によって専ら指導監督し、部員はひたすら指導監督を受ける関係にあるといってよく、そのような関係においては、部員が自発的に監督側に意思を表明し、ありのままの姿を見せることは困難なことも考えられるので、特に教育的で、自発性を促すような配慮が必要である。

殊に、被告菅原及び被告石塚は、練習中に部員を殴ったことがあるとみずから供述しており、これが、部員が失策をし、或いは監督らの指示に忠実でなかったため、指導、指示を徹底させる趣旨から出た処置であっても、これを受け或いは側で見ている部員からすると、必ずしもその趣旨のとおりに受け取られず、部員を心理的に萎縮させ、ときには畏怖心さえ抱かせかねないのであるから、一層の配慮が必要であったといわなければならない。

2 前掲甲第九号証、同第一二号証の八、証人杉江和実の証言並びに被告石塚及び被告菅原各本人尋問の結果によると、次の事実が認められる。

前記認定のように、宏之が入学した昭和六三年四月二二日に生徒の健康診断が行われたが、その後、被告菅原らが野球部の一部の者についてベースランニングなど簡単な走力の測定を行ったことはあるものの、同部員についてトレーニングの目的及び効果ないし影響を考えて、体力測定や健康診断を行った事実はない。

また、普段、練習開始に先立って監督或いはコーチが全部員を集めて、練習の方法、或いは部員の体調などについて注意、確認をすることは行われず、本件事故当日もそのようなことが行われた事実はない。

前記認定のように、被告石塚は、出島寮において、午前六時三〇分ころと午後八時三〇分ころの点呼に際し、体調の悪い者は申し出るように促しているというのであるが、部員は他の部員より早く選手としての能力を認めて貰いたいということ、或いは怠けていると思われないために、部員側から自己申告することは余り期待できず、部員は体調が多少悪くても、これを申告することなく、そのまま練習を続けるのが殆どであり、同年九月一〇日には、化膿性扁桃炎で練習中に倒れて、病院に搬送された生徒がいた。

さらに、運動中の適度な水分の摂取は重要であるが、本件当時、部員らは、ダックアウトにある水道から水を飲むことは可能であったものの、グランド練習或いはサーキット・トレーニングの途中に一人抜け出して水を飲む余裕は非常に少なく、監督やコーチの前では部員が心理的にもこれをためらう状況であり、同年九月四日にはグランド練習中に三名の部員が脱水症で倒れ、救急車で土浦協同病院に搬送されたが、その後、右のような事態を生じさせないような対策は講じられていない。

結局、土浦日大高校の野球部においては、監督やコーチが生徒の体力の現状を知り、健康状態に留意し、十分に健康管理に務めていたとは必ずしもいえない。

3 被告菅原本人尋問の結果によると、前記認定のように、本件事故当日、宏之や第二班の部員が行った①かち⑬までのサーキット・トレーニングの練習メニューは被告菅原が作り、株式会社東芝の野球部のトレーニングコーチに見せ、一応了解を得たというのであるが、それはサーキットメニューだけで、その後にポールダッシュをすることは含まれていなかったようであるので、右のトレーニングコーチの了承を得たというのは、その科学性、合理性を保証するものではない。もとより、①から⑬までのサーキットメニューは、運動負荷の程度を科学的に考慮したものではないとしても、被告菅原が監督などとして長年高校野球に関与した経験に基づくもので、一コースに約三〇分をかけて二回行うというのであれば、これだけで生徒の体力の限界を超え、その身体に加重な負担を及ぼす運動であるとはいえない。しかし、被告菅原は、サーキット・トレーニングの最後のポールダッシュにより心拍数がどの位になるかなどの運動生理学的な知識もなく、素人ですから分かりませんと答えているほどで、オーバートレーニングについての関心もなく、余計走ることによって一層強くなるとか、やればやるほど技術の向上につながるという認識の程度しかないのである。

4 被告石塚の過失

被告石塚は、前記認定のとおり、グランド練習中の第一班の部員を指導していたところ、宏之の属する第二班の部員がポールダッシュを終わったのに、たまたま目にした同部員らがポールダッシュを全力で走っていないと思ったため、「しっかり走れ。」或いは「休まないで走れ。」と二度にわたり声を掛けて指示したのである。しかし、被告石塚は、第二班の部員らが当日ポールダッシュを何本行ったか、或いは何本目を走っているときか分からないと供述しており、右の被告石塚の第二班の部員に対する指示は、適度なトレーニングを行わせるという配慮を欠いた軽率な行為であるというほかない。前掲甲第九号証及び同第一六号証によると、被告石塚が指示したポールダッシュについて、宏之と同じ班の班長であった二年生の杉江和実及び同じく高野徹は、当時息が切れ、喉の渇きを感じ、非常に苦しいものであったと述べている。

前記認定のとおり、被告石塚は、ポールダッシュをもう一セット(四本)繰り返させる趣旨で指示したというのであるところ、「休まないで走れ。」と言われた班長の杉江は、ポール・ポールではなく、連続ポールダッシュと理解して先頭に立って走り、班員に声を掛けて後に続かせたのであり、この点で被告石塚の指示と実際に行われたポールダッシュとの間に行き違いがあるが、これは、普段から被告菅原や同石塚から厳しい叱咤を受けていたため、杉江ら野球部員にそのような誤解をさせる結果になったものと思われる。したがって、行き違いがあるとはいえ、被告石塚がこのような部員の身体に過大な負担を与えるような不用意な指示をしたことは、部員の健康に対する配慮を欠いた行為であり、右の指示に従って連続ポールダッシュを繰り返しているうちに、宏之が倒れてしまったのであるから、被告石塚には前記注意義務に違反した過失があるといわなければならない。

5 被告菅原の過失

被告菅原は、教師ではなく、土浦日大高校に雇われて野球部の監督をしているものであるが、その部の練習内容や日程等の練習スケジュールを作成し、部員に対しその趣旨を説明して、練習を実施する立場にあるとはいえ、すべての練習に立会い、監視、指導する義務があるとまではいえない。そこで、被告菅原は、前記認定のとおり、本件事故当日は三年生部員の進路指導の件で出張していて、練習には立ち会わなかったのであるが、そのこと自体を義務違反であるということはできない。

しかし、被告菅原は、練習に立ち会えない場合には、事前にコーチである被告石塚と練習方法、内容について十分打ち合わせをし、自己の立会い、監視に替わる手当てをして、部員の健康に障害が生ずることのないような配慮をしておく義務があるといわなければならない。

殊に、被告石塚は、前記認定のとおり、本件事故当日、左足を骨折していて松葉杖を使用しており、四十数名の部員が二班に分かれて行う練習を監視し、指導をするのは容易でない状態であり、被告菅原もそのことを知っていた筈であるところ、被告菅原は、本人尋問において、留守にするからよろしくと挨拶したというだけで、本件事故当日の練習について事前に前記のような配慮をしたことは述べていないし、他にこれを認めるに足りる証拠はない。

もっとも、被告石塚本人尋問の結果によると、各班の練習には、野球部員であった三年生が数人ずつ指導の補助をしたというのであるが、宏之の所属した第二班について、補助者となった者が何人いて、どのようなことをしたかは明らかでなく、宏之が倒れた場所に右の補助者がいたという証拠もない。

したがって、被告菅原もまた、本件事故について前記注意義務に違反した過失があるといわなければならない。

6 被告土浦学園の責任

被告石塚及び被告菅原は、被告土浦学園の事業である学校教育の一環としての野球部の練習を指導中に、前記のとおりの注意義務に違反する過失により本件事故を惹起したものであるから、被告土浦学園は、両被告の使用者として、右の不法行為による損害を賠償する責任がある。

四  損害

1  宏之の逸失利益

三八五一万八六一二円

宏之は、死亡当時一六歳で、原告斉藤和宏本人尋問の結果によると、四年生大学への進学を予定していたことが認められるので、生存していれば、二二歳から六七歳まで四五年間就労して収入を得たであろうと認められる。そして、平成元年賃金センサスによれば、産業計・企業規模計の新大卒男子労働者の平均年収額は五八〇万八三〇〇円であることが明らかであるので、その間の生活費控除を原告ら主張のとおり五割とするのが適当であると認め、右収入額を基礎に宏之の得べかりし利益の死亡当時の現価をライプニッツ方式により、ライプニッツ係数13.2633(就労の終期六七年から死亡時一六年を引いた五一年の係数から、死亡時から就労の始期までの年数である六年の係数を差し引いた係数《原告らが、二二歳の就労を主張しながら、二年の係数を差し引いているのは採用できない。》)を基に計算すると、三八五一万八六一二円(580万8300円×0.5×13.2633)となる。

2  宏之の慰謝料

一八〇〇万円

宏之の年齢、生育歴、同胞三人の長男であったことなどの家庭の事情、学業の状況、本件事故の状況など諸般の事情を総合して判断すると、宏之の受けた精神的苦痛を慰謝するには、原告らが主張するように、一八〇〇万円をもって相当と認める。

3  葬儀費用

一二〇万円(原告ら各自六〇万円)

原告斉藤保江本人尋問の結果によると、原告らは、宏之の葬儀費用として少なくとも一二〇万円の費用を支出したことが認められる。

4  原告らの慰謝料

各自一〇〇万円

原告らは、宏之の両親であるところ、本件事故により、長男で、将来に期待をかけていた宏之をわずか一六歳で失い、著しい精神的苦痛を受けたことが認められ、宏之の土浦日大高校入学の経緯、その後死亡するまでの状況を勘酌し、右の苦痛を慰謝するにはそれぞれ一〇〇万円をもって相当と認める。

五  原告らの相続

原告らが宏之の父母であることは当事者間に争いがなく、原告らは、各自、前記1、2の損害賠償債権の合計五六五一万八六一二円の二分の一に当たる二八二五万九三〇六円宛を相続したことが明らかである。

六  損害の填補

一五〇〇万円(原告ら各七五〇万円)

原告らが、日本体育・学校健康センターからの災害共済給付として一四〇〇万円の死亡見舞金の支払を受けたことは当事者間に争いがない。被告らは右の死亡見舞金について損害額から控除すべきであると主張し、原告らはこれを争うが、日本体育・学校健康センター法四四条によると、学校の設置者が民法等により損害賠償の責めに任ずる場合において、免責特約付き災害共済給付契約に基づき災害共済給付を行ったときには、同一事由についてはその価額の限度で損害賠償の責めを免れるとされており、その趣旨と同様の理由により、本件についても右死亡見舞金を損害額から控除するのが相当である。

また、被告土浦学園が、原告らに対し、宏之の通夜に際し五〇万円、告別式に際し一〇〇万円を提供していることは当事者間に争いがないところ、被告らは、右金員も損害額から控除すべきであると主張し、原告らはこれを争うのであるが、これらも被告土浦学園において、宏之の追悼及び原告らの悲しみを慰謝する趣旨も含めて提供されたものであることが窺われ、金額において社交的儀礼の範囲をはるかに超えていると思われる告別式に際して提供された一〇〇万円については、損害額から控除するのが相当である。

七  弁護士費用

四〇〇万円(原告ら各自二〇〇万円)

本件事案の内容、訴訟の経過、認容額等を考慮すると、本件事故による弁護士費用は、原告ら各自について、二〇〇万円をもって相当と認める。

八  結論

以上によると、その余の点について判断するまでもなく、原告らの各請求は、被告らに対し、各金二四三五万九三〇六円とこれに対する本件事故の日である昭和六三年一〇月二六日から支払済みまで年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める限度において理由があるので、これを認容し、その余の請求は理由がないからこれを棄却すべきである。

よって、訴訟費用の負担について民事訴訟法八九条、九二条、九三条を、仮執行宣言について同法一九六条を各適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官福嶋登 裁判官小宮山茂樹 裁判官難波宏)

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